おじさんの独り言

「叱る」を考える

2008.03.05

 3月弥生。
 春はもうそこに。
 先週、所用があって、行橋に出かけた道中、今川の河川敷に菜の花の黄色が目に鮮やかだった。
 春はもうそこに。
 やがて、こぶしの白い花も咲き始め、春を運んでくるだろう。
 春はもうそこに。
 きっと、どこかで土筆も頭を出してくるだろう。
 春はもうそこに。

 さて、歌手の和田アキ子さんが「おとなの叱り方」を出版した。まだ、手にしていないが興味のある本だ。
 ネットの紹介では「挨拶できないヤツを叱る!/きちんと謝れないヤツを叱る!/公衆マナーの悪いヤツを叱る!/だらしない服装を叱る!/食事のマナーを叱る!/ビジネスのマナー違反を叱る!/「親になる資格がない」おとなを叱る!/不甲斐ない自分を叱る!」とある。
 「叱る」行為を考えると、叱る側と叱られる側の上下関係がある。家庭においては親と子、社会にいては先輩・後輩、年長者と若年者、会社など組織においては上司と部下の関係だ。自分で自分を叱る場合もあるだろう。逆のケース、子が親を叱る、後輩が先輩を叱る場合は、「叱る」といわず、「諌める」と正しいと思うが・・。
 では、なぜ、「叱る」のだろう。
 それは、「叱られる」側に対し、何かのルール違反の再発防止を求め、反省を促すことではないだろうか。これは、ルール遵守、マナーアップ、道徳・倫理にかなった行動などを指導、教えることにほかならないと・・・。小中学校の算数・国語・理科・社会で教えることが出来ない教育が「叱る」目的だと思うのである。
 そして、それは、秩序ある家庭生活や社会生活、会社の円滑な組織運営を目指すものだろう。
昔、怖いもののたとえとして、「地震・雷・火事・おやじ」と言われていた。「おやじ」とはやまじ風・台風が語源と聞くが、私は頭にある「おやじ」は、口うるさく、よく怒鳴り、叱る町内のおじさんと今も思っており、いろんなことを学んだように思う。
 いま、社会には、そんな「おやじ」が少なくなり、加えて、家庭で、会社で、「叱る」「叱られる」機会が激減しているように思える。視点を変えれば、「叱り方」が変化、つまり人権尊重の名の下に、「叱る」のではなく「諭す」ことに重きを置き、「叱る」機会が見られなくなったと言えよう。私自身も叱る側の立場が多くなったが、「叱る」よりも「諭す」言い方に変わっている。
 その結果、叱る側の思いと叱られ側の思いに大きなずれが生じているのはないだろうか。
 改めて、「叱る」こと、叱られることが学びの場であることと再認識して道(人生)を歩きたいと思う。

 叱られると逆切れする風潮を危惧する一人として、和田アキ子さんの本が一石を投じることを祈っている。

 春はもうそこに。

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